2023年9月号
災害に強い都市・東京の基礎をつくった後藤新平
1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、大きな地震が関東地方を襲いました。「関東大震災」です。被害は東京だけでなく、関東一帯に広がり、死者や行方不明者が10万人を超えました。東京だけでも、5万人以上の人が地震とそれに続く火災などによって亡くなられたそうです。2011年(平成23年)に起きた東日本大震災での死者・行方不明者は約2万人でしたから、その5倍。どれほど大きな災害だったのか今では想像もできませんね。
今年は、それからちょうど100年になります。関東大震災後、東京は、地震や火事に強い街へと大きく生まれ変わりました。その中心となったのが、当時の内務大臣で、「都」になる前の東京市長を務めた経験もあった後藤新平でした。
1923年9月関東大震災発生 10万人以上が犠牲に
後藤新平(1857~1929年)は、仙台藩水沢城下(現在の岩手県奥州市)生まれ。愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)の医師を経て1882年、現在の厚生労働省にあたる内務省衛生局に入りました。激動の明治時代を引っぱった政治家・児玉源太郎が、当時日本が統治していた台湾の行政を管理する台湾総督府の総督となると、その補佐役に抜擢されました。そして台湾での行政手腕が評価され、内務大臣、東京市長、外務大臣など国家を支える重要な役職を歴任します。
関東大震災直後の1923年9月2日に再び内務大臣となり、大きな被害を受けた東京を復興させるために新たに作られた帝都復興院総裁になりました。
関東大震災の被害は主に東京都と神奈川県に集中しましたが、千葉県、埼玉県、静岡県など関東を中心とした広い地域におよびました。とくに東京では地震後、130カ所以上から出火しました。その日、関東地方は台風の影響で強い風が吹いており、火はまたたく間に広がりました。現在の台東区や墨田区などの下町一帯は木造の家屋や避難する人たちの荷物に燃え移り、激しい炎に包まれました。町はそのほとんどが焼失し、東京は焼け野原になってしまいました。
後藤は初め、焼けた土地すべてを買い上げて整備しようとします。しかし、当時の国家予算の1年分を超える巨額の予算が必要だったため、財界などから反対されました。財産を奪われることを心配した地主などからの反対もありました。初めに立てた計画よりも予算を減らされましたが、それでも後藤は、災害に強い街づくりのために力を注ぎました。
焼け野原の東京復興に力を注いだ後藤新平
道路造りと街の区画整理
後藤はまず、幅の広い道路造りや、街を整った形に変える区画整理に力を注ぎました。現在の「昭和通り」、「靖国通り」(当初の名称は大正通り)、環状線となる「明治通り」(環状5号線)などが、このときに造られました。
当時は自動車がまだ普及していなかったことから、歩行者の安全を確保する緑地帯をそなえた広い道路は必要ないという声も強かったそうですが、今はどれも、たくさんの自動車が走る東京の主要道となっています。後藤がいかに未来を見通していたのかが、この道路造り一つをとっても分かります。
震災復興大公園の整備
次に後藤は、火災が広がらないようにし、災害があっても人々の避難場所となるように、「震災復興大公園」を整備します。「隅田公園」、「浜町公園」、「錦糸公園」はこのときに整備されたものです。
震災復興橋梁の整備
隅田川にかかっていた橋の多くは、木製の床が焼け落ちてしまい、大きな被害が発生しました。そこで、下流から順に、「相生橋」、「永代橋」、「清洲橋」、「両国橋」、「蔵前橋」、「厩橋」、「駒形橋」、「吾妻橋」、「言問橋」の計九つの鋼製の橋が、それぞれ異なるデザインで「震災復興橋梁」として整備されました。このほか、東京中の橋が計400以上も造られ、「万世橋」、「聖橋」などが、当時の姿のまま今も使われ続けています。
災害に強い鉄筋コンクリート製の復興小学校
また関東大震災では、東京市の市立小学校196校のうち、117校が焼失してしまいました。それまでの校舎は木造でしたが、火災があっても燃えにくい鉄筋コンクリート製の「復興小学校」として建て替えられました。そして、その大半には隣接地に災害時の避難場所ともなる「小公園」が整備されました。
東京・銀座にある「泰明小学校」の校舎は、円形に張り出した講堂と体育館、アーチ型をした三階の窓などが特徴的で、ほぼ建設当時の姿のまま、今でも小学校、幼稚園として使われています。
ツタがからまる建物は今見てもモダンで、優雅なたたずまい。東京都選定歴史的建造物、経済産業省近代化産業遺産にも指定されています。隣接する小公園、「数寄屋橋小公園」も、銀座地域の貴重な緑の広場として親しまれています。
今年4月に就任した荒川比呂美校長(泰明幼稚園園長兼任)は、次のように話しています。
「泰明小学校には今、各学年2クラスずつ、計290人の児童がいます。今年で、創立から145周年になる大変歴史のある小学校です。関東大震災後に建てられた鉄筋コンクリート製の校舎は、第二次世界大戦のときに空襲の被害も受けましたが、大変頑丈な造りで、今も建てられた当時のままの姿を残しています。銀座の街の人々や、卒業生、保護者の方などから大変強い愛着を持っていただき、温かく見守っていただいています。特に5000人以上いる卒業生たちの『泰明愛』は熱く、学校行事などにも熱心に協力していただいています。今後も、歴史と伝統あるこの校舎を大切にし、関東大震災の話や防災の意義を児童たちに伝えていきたいと思っています」
水洗トイレも備えた同潤会アパート
また、震災からの住宅復興を目的にした義援金をもとに、内務省の関連団体として「財団法人同潤会」が設立されました。同潤会は、1926年から、日本最初期の近代的な鉄筋コンクリート製のアパートを建設。鉄筋コンクリート製であるため、地震や火災に強いというだけでなく、ガスや水道、水洗トイレなども備えていました。当時としては最新の設備が整えられ、東京で暮らす人たちに新しい生活様式を示す、斬新なアパートでした。
同潤会アパートは1933年までの10年間で、東京都内や横浜市内に計16カ所、約2800戸が造られました。このうち「大塚女子アパート」は、エレベーターや食堂、共同浴場、音楽室などまで備えられた、当時最先端の施設で、働く独身女性の憧れのアパートでした。
同潤会アパートは老朽化などのため、すべて建て替えられており、当時の建物は残っていません。ただ、「表参道ヒルズ」として再開発された「青山アパート」は、東京の歴史を未来につなぐために東端の1棟の外観が再現されており、当時の様子を見ることができます。
これらのように東京は、関東大震災後、後藤新平が中心となってさまざまな復興事業が行われました。主要道路や区画などそのときに造られた街の形が、現在の東京の街並みの骨格となっています。特に下町地区ではその後、道路の新設は行われておらず、帝都復興事業によって整備された街区が今もそのまま使われています。東京は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、後藤新平らの復興事業によって、以前よりも災害に強い都市として生まれ変わったのです。私たちは今も、約100年前の大事業の遺産を受け継ぎ、その上で暮らしているのです。